🔔不幸のはじまりは他者との比較から🔔

ゴキゲンさまです。鐘吉(しょーきち)です。

6回目の投稿になります。ご一読いただけましたら幸いです。

タイトルの「不幸のはじまりは他者との比較から」ですが言葉のままで、誰かと比べることでヒトは不幸と感じることが多いということです。誤解を招きそうなので先にお伝えしておくと「誰かと比べるからこそ成長できるよね」「自分の足りないところに気付けるよね」というご意見もごもっともです。私もその点は賛同です。ただ、取り扱い方次第で不幸になりうる要素を大いにはらんでいることもまた事実です。

SNSで友人が最新のブランドバッグを買ったのを見てうらやましい。どこどこのカップル・夫婦は月に1度はレストランで食事をしていて自分はできていない。したこともない。など、劣等感は感じようと思えばいくらでも感じることができます。そもそもその比較自体に意味はあるのでしょうか?生まれた時点で完全な平等はあり得ないですし、仮に平等であったなら個性は失われることと同義です。誰かとの差や何かとの違いはあって然りなので、そのギャップを受け入れた上でいかに自分の人生をより良くしていくかに時間も脳も使っていくほうがよっぽど充実した日々になるかと思います。

もちろん生まれた場所や時期などによって不遇のスタートを切ることもあるでしょう。ただこの投稿を見れている時点でネット環境に身を置けているわけで、世界には今日生きてゆくための食糧にすら困っている人々が確実に存在しています。その人々は今日を生き延びるために全身全霊を込めており、誰かの持っているブランド品や高級車や高級レストランのことなど考えているヒマなどないのです。

ただ私ももちろん多聞に漏れず、この考え方をインストールしきっているわけではありません。インスタを見て「カッコイイな」「美味しそうだな」とつい羨ましくなってしまうこともあります。ただ、そのまま嫉妬や羨望の感情だけで物事が好転しないことも覚えたので、前回の投稿にもある「足るを知る」の精神を常にわすれないように日々心掛けています。

私にとっての他社との比較をしないために気を付けていることを3つ。

1.上を見始めたらキリがない。

2.自分にとっての幸せを定義する。

3.要は心の在り方ひとつ。

上を見始めたらキリがないのはやはり生活・日常の中でのちょっとした物事の見方・捉え方です。顔立ちやスタイル、職業や年収、SNSのフォロワー数など、数値化できるものからできないものまで多岐にわたります。今あるものに目を向ける。目をそむけたくなるのならば向けられるようになるまで努力を怠らない。羨ましく見えているその誰かも、また誰かを羨ましく見ているものです。キリ、ありますか?

自分にとっての幸せとは何でしょう。それはヒトが決めることではなく、今までの人生を通して積み上げられてきた価値観の集大成が決めます。私は1日3食を食べようと思えば食べれる(健康維持の観点から基本1~多くて2食ですが)、寝るところが確保されている、週に1回サウナに行ける。くらいのものです。大げさに聞こえるかもしれませんが、生きているだけでもはや幸せです。自分が過ごした今日は、昨日死んだ誰かにとって死ぬほど生きたかった明日です。そう考えると嫉妬や羨望でなんとなく過ごしていること以上に無価値なものはありません。

心の在り方については、自分が幸せと思えば幸せですし、不幸と思えば不幸ということです。野球で1本ヒットを打って大喜びした1日と、ホームランを量産しても釈然としない1日と、もしその日に死んでしまうようなことがあったとき、前者のほうが笑って死ねるはずです。あのヒトはホームランを打ててすごいな~くらいは思うかもしれませんが、でも自分はヒット打ててるだけで満足!と比べず考えられるほうが心が豊かになりやすいというものです。

不幸になりたくてなるヒトはいません。それなのに自分は不幸だと思って生きているヒトがあまりにも多すぎます。今一度、あるものに感謝し、今を大切に生きてみることを最優先してみてはいかがでしょうか。

最後に

「不幸のはじまりは他者との比較から」を考える中で、1つだけ。

好きなヒトに囲まれて好きな事をしていたら不幸になりたくてもなれませんから。

この投稿が皆さまの人生にかすかでも警鐘を鳴らせましたら幸いです。

以上、鐘吉でした!


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